チェルノブイリ原発事故より30年、いつになったらこの祈りは届くのか『チェルノブイリの祈りー未来の物語』
すっかりご無沙汰しております。
ちょっと子どもを産んでおりました。
産む前は、産後しばらくは書けないだろうけど、まぁ3ヶ月もすれば少しずつは復活できるかなぁ、、、なんて甘い考えでいたのですが、、、、うん無理。
今もまだまだ文章を書く余裕はほんとになくて、なかなかパソコンの前に座れもしない状態なのですが、それでも今回なんとか更新したいと思ったのは、やっぱりそう思わせられた一冊の本に出会ったからです。
それがこちら
『チェルノブイリの祈り』スベトラーナ・アレクシエービッチ 岩波現代文庫
あいやー、、、無知でほんとすいません。
調べてみると確かにチェルノブイリ原発があるのはウクライナ(当時ソビエト連邦)なのですが、ちょうどベラルーシ(当時白ロシア)との国境付近に位置しているのですね。そして、あの事故の後汚染物質がより多く流れていったのは、なんとベラルーシなんだそうです。ウィキペディアによると周囲10000㎢がかなり高濃度のセシウムに汚染されたそうですが、そのうち7000㎢がベラルーシだったと書いてありました。
ほとんどだ。
まー何にも知らないもんだな。日本でも福島の原発事故があって、原子力発電を持つということがどういうことなのか突きつけられたばかりだっていうのに、自分のこの意識の低さに愕然としました。ほんと、はずかしいわーーー。
簡単に言ってしまうと、当時その場所にいた人々、今現在(正確には取材当時なので20年も前ですが)その場所に住んでいる人々、消防士や原発作業員として働いて明らかに放射能の影響で亡くなった人たちの妻、後遺症に苦しむ子供たち、そんな実際にその場で生きて呼吸している人たちの声を淡々と拾い、淡々と記しているだけの本です。
劇的な感情に流され同じ言葉を繰り返すだけの人。すべてを諦めた後の静かで冷たい目を感じる言葉。子供たちの無邪気だからこそ、すべての大人を黙らせる力を持った痛烈な一言。そんな言葉たちを拾い集め、ただ本当に淡々と並べただけ。
言ってみれば本当にシンプルなそれだけの本なのに、読み終えてしばらくはことばがでなかった。のどがカラカラに乾いて息ができないような気分になりました。
ここにあるのは、どんな検証文献よりもずっと圧倒的な“真実“だった。
そしてさらに、誤解を恐れずに言うのなら、まぎれもない“文学”でもありました。
これが人間。
そこで実際に呼吸して生きているとはこういうことなのだ。
それはどんな報告とも全然違う。どれだけ部外者が詳細に調査をして、長い期間をかけて調べ上げた調書だとしても、これとは本質がまったく違うものだろうと感じられました。
チェルノブイリという土地はそういった意味でまったく違う場所になってしまった。
それもほとんどが人災によってです。
政府や発電所の責任者たちは事故が前例のないものだったために、やーもしかして意外と大丈夫なんじゃね?うんそうだよ放射能っていったって目に見えないしそんなものが人体にどうやって影響をおよぼすのかねきっと大丈夫だよ大げさだなぁパニックが1番こわいのだよ落ち着きたまえきみもう火災は鎮火したんだから(想像)って感じで発表しなかった。それゆえに地元の人たちや、消火にあたった消防士、発電所の職員たちは逃げずに対応して被爆し、苦しみ抜いて死んでゆきました。
チェルノブイリは、かつては緑豊かな非常に美しい土地だったといいます。
福島も悲しいことにまったく同じ。
それが実際にそこに住む人々にどのような影を落とすのか。
わたしたちは日本人だからというだけではなく、ただ人として今一度考えてみなければならないと思いました。
わたしは今、その地に住んでいた人たちの声が聞こえるこの本に出会えてよかった。遅すぎるぐらいだけど、それでも出会わないよりは100万倍マシ。本当に強くそう思います。
文学をはじめ、芸術は生きるのに必要ないものと思われがちですが、そうではない。そういうものではそもそもなく、文学とは、芸術とは、もう血であり肉であり、生きて呼吸している人たちの生命の力そのものだと確信を持って思えたから。
スベトラーナ・アレクシエービッチ。ノーベル文学賞受賞により、もっともっと広く読まれてほしい作家だと思います。賞を取ったときに群像社で出版されていた作品の版権が切れていて、増刷されなかったというニュースを本当に悲しく見ていたのですが、
やはりさすがです。我らが岩波書店がきっちり引き受けてくれました。『戦争は女の顔をしていない』と『ボタン穴から見た戦争ー白ロシアの子供たちの証言』2作が岩波現代文庫より発売になるそうです。(2/16ごろ発売)
これを機にたくさんの人の目に止まることを心より願います。